見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(イザヤ書12章2節)

1.ヨハネの福音書316節―18
2.ローマ人への手紙56節−11
3.コリント人への手紙第一153節−11
4.ペテロの手紙第一1章18節ー21節

パウロはキリストに出会う前は「「律法による義についてならば非難されるところのない者であった。(ピリピ人への手紙3章6節)」と豪語しているように、律法による自分の義に生き、自分のうちに罪があることを気づかずにキリスト者を迫害していましたが、キリスト者となった彼は自分のうちに罪(口語訳:罪の力)があることを認めるとともに「内なる人としては神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」と悩みましたが、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」その答えがキリストにあることを発見するとともに死であってもどんな被造物もキリスト・イエスにある神の愛からキリスト者引き離すことのできるものはなにもないという確信をもつにいたったのでした(ローマ人への手紙7章20節-8章3節及び23節-39節)。今日の聖句「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」を心に据えて恐れを締め出してくださる神の愛が聖霊によって与えられていることを自覚するとともに、エレミヤが「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(エレミヤ書17章14節)」と告白しているように、私たちも主をほめたたえ、主を信頼して生活しようではありませんか。