あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12章3節)

1.詩篇10540節―45
2.ヨハネの福音書43節―26
3.ヨハネの福音書737節―38
4.ローマ人への手紙9章24節―10章13節

エジプトにおいてヨセフを知らないパロの時代になると、イスラエルの民を恐れ過酷な労働を課して生活を苦しめたのでした。それをご覧になった神はモーセに「わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地に、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に上らせるためだ。」と仰せられてエジプトに遣わされたのでした。主は数々の奇蹟もって民をエジプトから導き出され、紅海においてどれほどの力があるかを示されたので、モーセと民は「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められた。馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神、この方を私はあがめる。」と賛美しましたが、約束の地に入るためには荒野を旅しなければなりませんでした。荒野において民は水に渇きを覚えてモーセに「私たちに飲む水を下さい。」と言うと、モーセが「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言ったので、民は「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇き死なせるためですか。」と、つぶやいたのでモーセが主に「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」叫ぶと、主はモーセにホレブの岩を杖で打つように仰せられ、モーセがそのようにすると岩から水が出たので民はその水を飲んだのでした。民は「主は、私の救いとなられた。」と賛美したにもかかわらず、主にではなくモーセに水を求めたのでした。今日の聖句「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」は、前句2節「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」を受けてのことではないでしょうか。イザヤ書8章14節やパウロもペテロも岩はキリストであることを語っています。イエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(ヨハネの福音書6章35節)。と仰せられました、心が飢え渇きを覚える時、救われていること、どんな状況にあっても私たちの必要をご存知だけでなく必要を満たしてくださださる主に喜びをもって私たちの願いや祈りをささげようではありませんか。