目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ人への手紙42節)

1.詩篇1031節―14
2.マタイの福音書1818節―19
3.ピリピ人への手紙4章6節−7節
4.テサロニケへの手紙第一5章16節―19節

イエス様は弟子たちに、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官のたとえをもって、彼がひとりのやもめの女性の願いをかなえて裁判をすることにした理由を「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」と、仰せられてから、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさまぎをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と、いつも祈るべきであり、失望してはならないことを教えられたのでした。当時イスラエルはローマの圧政下にあり、民はメシアを求めていたのでした。死からよみがえられたイエス様に「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。(使徒の働き1章6節)」と尋ねた弟子たちのことばにも見られます。ペテロは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」という人々に対して「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と、主のみこころを知る者となり、主は約束を守られる方であること、主の時があることを語っています。ヤコブの手紙5章13節は「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と勧めていますが、自分では耐えられない、と思うようなことがあっても、みことばは、耐えられないほどの試練に合わせるようなことはなさない神であることを語っていますし(コリント人への手紙 第一10章13節)、主は感謝できないような状況にあるときがあることをご存知で「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、私わたしは神の救いを見せよう。(詩篇50篇23節)」と、また、今日の聖句は「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」と勧めていますが、そのためには、目をさます、すなわち、問題に目を留めるよりも、人類を救うために主がどれほどの苦しみを受けられたかを忘れずに、苦しみの向こうには主の栄光が備えられていることを心に据えて、主のみこころがなされるように、福音宣教の働きが前進するように祈り続けようではありませんか。