主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、わたしのいのちのとりで、だれを私はこわがろう。(詩篇27篇1節)

1.詩篇365節―9
2.ダニエル書31節―29
3.ヨハネの福音書1章1節ー6節
4.ローマ人への手紙828節―39

箴言29章25節に「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」と、ありますが、「わな」とは、ある距離をもって太陽に向かってある距離をもって十円玉をかざすと、太陽が見えなくなってしまうように、人を恐れると偉大な神が見えなくなってしまうような状況が起きてしまうことを示唆しているのではないでしょうか。イスラエルの民は神の力がどれほどのものであるかを体験していながらも、モーセが「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と民に言ったにもかかわらず、民の「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入っていく町々について、報告を持ち帰らせよう。」という考えは良いと思いモーセも同意したので(申命記1章19節−22節)、主は各部族の族長を遣わすように助言したのですが(民数記13章1節)、その結果、遣わされた12人のうちヨシュアとカレブ以外の者は神が約束された地にはアナク人がおり「私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と言いふらしたので、「私たちはエジプトの地で死んだほうがましだ。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」などとつぶやいただけでなく「主にそむいてはならない。」と助言したヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたのでした(民数記13章33節―14章10節)。彼らの問題は巨人と自分を比較し神の偉大さを忘れたことにあります。パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。・・・私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」と語ってから「どんな被造物もキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」と救われている者に与えられている特権を語っています。ヨハネの手紙第一4章18節は「愛にはおそれがありません。全き愛は恐れを締め出します。」と語っています。恐れが襲って来た時、恐れに勝利するために今日の聖句「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、わたしのいのちのとりで、だれを私はこわがろう。」を思い起こそうではありませんか。