キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル人への手紙5章7節)

1.詩篇119篇65節ー71節
2.ピリピ人への手紙46節―7
3.ヘブル人への手紙5章1節―10
4.ヘブル人への手紙12章2節―3節

主はご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と言われると、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と天から声がありましたが、ゲッセマネの園で悲しみもだえながら、主が「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」と祈られた時には天からの声はありませんでしたが、神は御使を遣わして力づけたのですが、イエス様は汗が血のしずくのように地におちるほど苦しみもだえていよいよ切に祈られたのでした。イエス様は「あなたがたは、今夜、わたしのゆえにつまずきます、『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。」と弟子たちに言われると、ペテロは「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と申し上げましたが、主は「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と仰せられたので、「ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」とペテロと弟子たちみな言いましたが、彼らは悲しみの果てに眠り込んでしまったのでした(マタイの福音書26章31節―35節 ルカの福音書22章42節―45節)。イエス様は弟子たちに何度かご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、聖書の預言を成就するために遣わされたことを話されていたように、ご自分がどのような目に会うかを事前にご存知であったがゆえの苦しみであり、その苦しみにひとりで戦わなければならなかったのですが、ヘブル人への手紙12章2節は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と、語っていますが、それは今日の聖句が「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と語っているように、祈りをもってご自分の願いや思いに勝利されたことを語っているのではないでしょうか。悪魔や肉の思い、感情はたましいに挑戦してきますが、敬虔に生きるために主が祈りによって勝利されたように、心のうちを正直に申し上げるとともに「主のみこころがなりますように」と、ことばで祈るだけでなく、主権者は神であることを、私たちひとりひとりに神のご計画があることを認めるようにしようではありませんか。