義は主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85篇13節)

1.ヘブル人への手紙122節―11
2.ペテロの手紙第一2章19節ー25 節
3.ペテロの手紙第一4章12節―19節

パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ人への手紙3章23節―26節)」と語っています。ところで、ガラテヤ人への手紙3章6節は「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。」と、神を信じることによって義とみとめられることを語っていますが、ヤコブの手紙2章20節−21節は「ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められではありませんか。」と、行いによって義と認められることを語っているために、矛盾があるように思われますが、神はキリスト者を義と認めてくださっていますが、義とされていることを行いによって現すこと、すなわち義の実を結ぶ生き方をすることを示唆しているのではないでしょうか。主はゲッセマネで苦しみもだえながら「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(ルカの福音書22章42節―44節)」と祈られて十字架の死にまで従われ、義人の生きるべき道を示されたのでした。パウロは「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(コリント人への手紙第一11章1節)」と、今日の聖句が「義は主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。」と語っているように主の足跡に従って生きられただけでなく、私たちもキリストを見ならって生きて欲しいと、願っています。その願いに応答して生きるために、ご自身を捧げられたイエス様を見上げて生活しようではありませんか。