みこころが天で行われるように、地でも行われますように。(マタイの福音書6章10節)
1.詩篇119篇149節―152節
2.マタイの福音書7章15節―23節
3.エペソ人への手紙1章1節―12節
4.ピリピ人への手紙2章3節―16節
今日の聖句「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」はイエス様が「祈るときにはこう祈りなさい。」と言われて教えてくださった、主の祈りの中の聖句です。この聖句には主のみこころが「天」と「地」の二つの領域に及ぶことを語っています。ところで、エペソ人への手紙1章1節に「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、」と、5節には「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と、7節―11節には「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもってみこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者となりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」と、天で行われた神のみこころは人が全く介入できないものであることを語っています。教会を迫害していた者が使徒となることなどペテロにとってもパウロ自身にとっても驚愕する出来事だったのではないでしょうか。一方、イエス様が「わたしに、向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るのです。その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と仰せられたことばに、コリント人への手紙 第一2章11節「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊にほかに、だれが知っているのでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」に、みこころを行うためにはキリストとの関係と御霊の働きが不可欠であることを語っています。パウロ同様、すべてのキリスト者は主のご計画のうちにあり、この地にあって神のみこころを行うことができるのは聖霊の宮とされているキリスト者に与えられている特権であることを自覚し、パウロが「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころが何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と勧めているように、自分の考えや人を欺く情欲に支配されてに生きるのではなく、主の主権を認め、神のみこころを明らかにしている恵みのみことばで生きるようにしようではありませんか。