八日後に、弟子たちはまだ室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。(ヨハネの福音書20章26節)

1.ヨハネの福音書1422節―27
2.ヨハネの福音書1630節―33
3.ピリピ人への手紙46−7

主はモーセの死後、イスラエルの民を約束の地に導くヨシュアに対して「強くあれ、雄々しくあれ、わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたがたに命じたすべての律法を守り行え、これを離されて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。・・・わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1章6節―9節)」と三度も「強くあれ、雄々しくあれ。」と、そして「恐れてはならない。おののいてはならない。」と仰せられたのでした。「恐れ」は、神が禁じた善悪の知識の木の実を食べてアダムが罪を犯したことによって人類に臨むことになったのですが(創世記3章8節―10節)、ヨハネの手紙 第一4章18節が「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」と、全き愛、すなわち神の愛は恐れを締め出す力があることを語っているように、神は罪や死だけでなく恐れからも贖うために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになられたのでした。この世の人々は、可能性思考や肯定的思考が流行ったように、神の存在を考慮しないで考え方を変えれば解決するかのように思わせますが、それらのことは一時的な気休めを与えることができても、ふと不安になると、最悪の状態を想定し、恐れに支配されてしまうような状態になってしまうのではないでしょうか。主はこの世が与えることのできない主の平安を与えてくださることを約束されましたが、その前句に「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14章26節―27節)」と仰せられました。パウロは「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊をうけたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ。父』と呼びます。」と、御霊なくして神との関係を持つことができないことを語っています。今日の聖句は「八日後に、弟子たちはまだ室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。(ヨハネの福音書20章26節)」と、ほかの弟子たちが「主を見た」と言っても信じなかったトマスがいる所に、しかも戸が閉じられている室内ご自身を現され、「平安があなたがたにあるように」と仰せられたのでした。神がヨシュアに「主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいるからである、」と語られたように、信仰の完成者であるだけでなく、恐れを締め出してくださる神の愛を十字架で示された主が、どんな状況下でも、いつも一緒にいてくださることを感謝し、主の平安をいただいて生活しようではありませんか。