すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)

1.マタイの福音書543節―48
2.テサロニケへの手紙 第一 5章1節―19
3.ヤコブの手紙513節―16

ソロモンは神殿を奉献するときに長い祈りをささげましたし、ネヘミヤはエルサレムの城壁再建の働きをアルタシャスタ王に許可していただくために祈りましたし、イエス様は「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」という弟子のひとりの願いをお聞きになって、「祈るときには、こう祈りなさい。」と仰せられて、いわゆる「主の祈り」をお教えくださいましたし、ヤコブは苦しんでいる人は祈るように、病気の人は教会の長老を招き、主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらうように勧めている一方、動機が悪いと願っても与えられないことも語っているように(ヤコブの手紙4章3節)さまざまな祈りや願いがあるのではないでしょうか。ところで、今日の聖句は「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とキリスト者がキリスト者のために祈ることを勧めていますし、今日の聖句の後、パウロは福音の奥義を大胆に語ることができるように祈ってほしいという願いを語っています。ところで、今日の祈りに「御霊」による祈りが勧められていまが、それは。ヨハネの手紙第一5章14節が「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する確信です。」と、コリント人への手紙 第一2章11節が「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」と語っているからではないでしょうか。しかも、御霊は一つですから(エペソ人への手紙4章4節)、御霊によって人の心は一つとされるのではないでしょうか。教会成長の鍵を使徒の働き2章44節―27節に見ることができますが、そこには聖霊を受けたキリスト者たちがみことばに生き、心を一つにして礼拝し、生活している姿があります。聖書は神の霊感によるものですから、御霊によって祈る祈りには直接祈る課題を御霊が与えてくださる場合と神の約束のみことばである聖書のことばを握って祈ることをも意味するのではないでしょうか。約束の地を探って来た者のうち、その地について悪く言いふらした者のことばを信じて民は不信仰に陥り、信仰に立って民を励まそうとしたヨシュアとカレブを殺そうとしたように民の一致を妨げるようなことが起きないように聖徒たちが御霊によって一つとなるように、肉の思いに支配されて主に対して懐疑心を持つようなことがないように、「目をさます」、すなわち私たちの祈りや願いをお聞きくださる「主の存在」を意識して祈るとともに、みこころにかなった祈りでもその結果がすぐにもたらされることもありますが、ペルシャの君、すなわち悪霊によって妨げられダニエルの祈りの答えが21日間かかったように(ダニエル書10章8節―14節)、日本の君が長い間リバイバルのために祈って来たキリスト者の祈りの答えを妨げている可能性がありますが、ソロモンが「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3章11節)」と語っているように、主の時があることを、主が日本にリバイバルをもたらしてくださえることを心に留めて、主に期待しながら祈り続けようではありせんか。