外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の割礼が割礼なのではありせん。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ人への手紙2章28節―29節)

1.申命記10:12節―22
2.使徒行伝7:22節―51
3.コロサイ人への手紙2章8節―11節

神は「わたしは全能の神である。あなたはっわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしう増やそう。・・・わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」と、仰せられてから、すべての男子は割礼を受けるようにアブラハムに仰せられたのでした。割礼は肉体の一部を切り捨てるものであり、痛みをともなうものです(創世記17章1節―12節)。今日の聖句「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の割礼が割礼なのではありせん。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」を語っているパウロも八日目に割礼を受、律法による義に生き、聖霊を持たずキリスト者を迫害していたのでした。しかし、キリスト者となった彼は自分のうちに罪(口語訳:罪の力)があることを認めて「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」と心の葛藤をおぼえて悩んだのですが、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ人への手紙8章1節―2節)」と、キリストに答えを見い出したのです。ネブカデネザル王は、自分を拝まなかったために火の燃える炉の中に三人のユダヤ人を投げ込んだのに、炉の中に四人の者を見て、彼らに炉から出てくるように命じたのでした。炉から出て来た三人が火による害を全く受けていなかったので、彼は「いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。」と、彼は神の偉大さを全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに書き送りましたが(ダニエル書3章14節-4章2節)、神に栄光を帰すよりも自分の喜びとしたのでした。やがて彼は「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」と高ぶったために人間の中から追い出されて牛のように草を食べてホームレスになりましたが、主の時が来た時、理性が戻り、主をほめたたえる者となったのでした。パウロもネブカでネザル王も心の割礼を受けたのでした。さまざまな問題で悩む時、詩篇50篇23節の「感謝のいけにえ」を、ヘブル人への手紙13章15節の「賛美のいけにえ」を思い起こして、主が心の割礼を与えようとされていることを心に留めるとともに、罪人を贖うためにご自身のいのちをささげられたイエス様のことを考え、御霊によって心が新しくされ神の子とされていることを感謝し、主を誉めたたえて生きようではありませんか。