私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙1章16節―17節)

1.ローマ人への手紙319節―26
2.ガラテヤ人への手紙3章1節ー9節
3.ピリピ人への手紙32節―9
4.ヘブル人への手紙11章1節―6節

パウロは、パリサイ人として生きていた時には律法による自分の義に生き、自分が罪人であることがわからずにいましたが、キリスト者となってから自分の中に罪があることを認めることになり「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3章23節―24節)」と全ての人にキリストが必要であることを語るとともに、「私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」と義には二種類あることを、そして神の義はキリストを信じる信仰によって神から与えられるものであり、人間の努力によるものでないことを語るとともに「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです(コリント人への手紙 第一 1章20節―21節)」と語り、「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と、福音によらなければ神の義がわからないことや神の義と信仰の関わり、キリスト者が生きる道を示しています。ヘブル人への手紙11章3節は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからでいたのではないことを悟るのです。」と、この世の知恵では知ることのできない真実、信仰によらないと悟ることができない目に見えない世界があることを語っています。ヘブル人への手紙12章2節が勧めているように、信仰の創始者であり完成者であり神の義であるともに恵みとまことに満ちておられるイエス様から目を離さないように生きようではありませんか。