私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私はいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いふける、そのために。(詩篇27篇4節)
1.詩篇23篇1節―6節
2.ヨハネの福音書1章14節―17節
3.ヨハネの福音書15章4節―8節
ダビデは王でしたが、彼は「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私はいのちの日の限り、主の家に住むことを。」と語ってから、その理由を「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いふける、そのために。」と語っています。「主の家」とは、主が御臨在されるところではないでしょうか。ダビデは、いつも主の御臨在の中に生きることが彼にとって唯一の願いであることを告白するともに、「それを求めている」と、主の御臨在は、主との交わりによって主から与えられるものであることを語っています。イエス様は「わたしにとどまりなさい(口語訳:つながっていなさい)」ということをヨハネの福音書15章4節―7節の各節で力説しておられますが、その意味は、詳訳聖書が「わたしのうちに住みなさい。」と訳しているようにイエス様に住むことですが、ペンテコステの日に聖霊が下ったことにより、パウロが「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙 第一6章19節―20節)」と語っているように、聖霊なる神としてイエス様が私たちのうちに内住しておられることから、私たち自身が「主の家」とされているのではないでしょうか。日々、コロナウイルスに関する情報によってもたらされる恐れや思い煩いに支配されると、主が私たちのうちに内住しておられる事を忘れ、主の麗しさをないがしろにしてしまうような状況に足をすべらしてしまうのではないでしょうか。日々、主の御臨在の中に生きるために、パウロの「神の聖霊を悲しませてはいけません(エペソ人への手紙4章30節)御霊を消してはいけません。(テサロニケへの手紙 第一 5章19節)」という勧告を心に据え、思い煩いや恐れに支配されないように、主の栄光が臨ように、永遠のいのちを与えてくださった主を仰ぎ見て生きようではありませんか。