あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3章17節)

1.ローマ人への手紙8章33節ー39節
2.コリント人への手紙 第二 616節−18
3.エペソ人への手紙210節―22
4.ヨハネの手紙 第一 4章15節―17節

イエス様は、父親が生きているにも関わらず、「お父さん。私に財産の分け前をください」と言って自分の分をもらうと遠い国で放蕩し、湯水のように財産を使い果たした放蕩息子は家に帰る決心をして帰路につくと、まだ家から遠いのに息子の姿を見た父親の方から息子に走り寄って、彼を抱き、首を抱きかかえたので、彼は「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言いましたが、父は喜んで祝宴を始めたのでした(ルカの福音書15章11節―24節)」と、父は自分勝手なことをした息子を赦すだけでなく、「生き返った」、すなわち「リバイブ」されたと言って喜ぶことを話されたのでした。主は聖霊なる神としてキリスト者の心に内住しておられるだけでなく、神の右の座に座してとりなしていてくださるのです。私たちも、神よりも自分を愛すると、自分の考えや肉の思いに支配され、みことばに生きることができないようなことがありますが、主はダビデの子孫に対して「もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵み(英訳:愛)をサウルから取り去ったが、わたしの恵み(愛)をそのように、彼から取り去ることはない。」とダビデに約束されたように放蕩息子とのようにさまざまなことを用いて悔い改めへと主は導いてくださるのではないでしょうか。イエス様は、神が、神の愛がどのようなものであるかを放蕩息子のたとえをもって示しておられます。私たちは後悔するようなことをして自分を責めてしまいがちですが、そのような時、恵みの座でとりなしていてくださる主を仰ぎ見て祈り、今日の聖句が「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」と語っているように、主に喜ばれている存在であることを思い起こし、いつも主に立ち返り、日々リバイブされる人生を生きようではありませんか。