神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません(ヨハネの手紙 第一 5章3節)

1.伝道者の書129節―13
2.マタイの福音書1128節―30
3.ヨハネの福音書154節―11

「命令」とは上位にあるものが、下位のものにするべきことを告げるものですが、人が下す命令は支配欲によるものであるために、出された命令が人を苦しめたり、貧富の差を生み出したり、人の自由を奪い、重荷を背負わせるような性質をもっているのではないでしょうか。そのようなことを、香港が習近平主席の下した政策や命令に危機感を覚えた香港の市民の抗議デモがエスカレートして街を破壊してしまうようなことが報道されたように、習近平主席の支配下にある中国や金正恩委員長の支配下にある北朝鮮に顕著に見ることができるのではないでしょうか。一方、今日の聖句は「神の命令は重荷とはなりません。」と語っていますが、それは、主が「イスラエルの聖なる方、あなたを贖う主はこう言われる。『わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。』(イザヤ書48章17節)」と仰せられたように、神の命令は私たちの益になるようなものであり、自分の利益を求めない神の愛(コリント人への手紙 第一 13章5節)によるものだからではないでしょうか。イエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章9節―12節)」と、神の戒めは互いに愛し合うことですが、その戒めは神から与えられたもので、真理に基づく永遠のものであり、神が中心に置かれるものであって、この世の一般社会が提示するような条件や状況、感情に左右されるような愛ではないことがわかりますが、感情に駆られて怒ってしまったり、情に流されて真実な愛に生きることができず、良心のとがめを受けるような時、神は私たちの心よりも大きな方で、御子イエス様をお遣わしくださっり十字架で示された神の愛、すなわち赦されていることを、イエス様がとりなしていてくださることを思い起こし、互いに愛し合う、すなわち赦し合いながら、祈り合いながら、この世が与えることのできない主の平安の中に生きようではありませんか(ヨハネの手紙 第一 3章18節―20節)。