どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方、ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むように、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。(テサロニケへの手紙 第二 2章16節−17節)

1.マタイの福音書1233節―37
2.コリント人への手紙 第二13節―5
3.テサロニケへの手紙 第一 311節―13

金持ちの青年がイエスさまに「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と尋ねると、イエス様は「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。(マタイの福音書19章16節―17節)」と、良い方はひとりしかいない、すなわち罪とは全く無関係な神以外におられないことを語ったのでした。パウロは「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖のです。(ローマ人への手紙11章16節)」と語っていますが、黙示録22章16節は「わたし、イエスは御使を遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした、わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と、「根」はイエス様であり、枝はキリスト者であることを考えると(ヨハネの福音書15章5節)、キリスト者はキリストのゆえにすでに聖くされていることを意味しているのではないでしょうか。悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人を癒されたイエス様のことを群衆が驚いて「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言ったので、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼベルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言ったイパリサイ人に、イエス様は「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。(マタイの福音書12章34節)」と、言われました。今日の聖句は「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方、ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むように、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」と、あらゆる良いざわとことばに進むことができるのは主が心を慰め、強めてくださるからであることを、エペソ人への手紙2章10節は「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」と語っています。パウロは多くの苦しみを受けましたが「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(コリント人への手紙 第二 1章3節―4節)」と、彼は神がどのような方であるかをよく知っているがゆえに苦難の中にあっても主を見上げ、主をほめたたえて生きられたのではないでしょうか。どんなときにも慰め、励まし、すべてのことを働かせて益としてくださる主がともにてくださることを感謝して生きようではありませんか(ローマ人への手紙8章28節)。