神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げます。(ヤコブの手紙47節)

1.ヨシュア記11節―9
2.列王記 第一 1819節―39
3.ペテロの手紙 第一 58節―10

イザヤ書14章12節―15節が「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ穴の底に落とされる。」と語っているように、悪魔は、被造物でありながら、創造者である神と自分を同等に置こうと高ぶって地に落とされたのですが、悪魔とともにこの地に落とされた悪霊たちも、三位一体の神とその力と権威を知っているので、墓場から出てきたふたりの中にいた悪霊たちは、イエス様に「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と、わめいて豚に入ることを願ったのでした(マタイの福音書)。パウロは「もしあなたがたが人を赦すなら、わたしもその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(コリント人への手紙 第二 2章10節―11節)」と、サタンに欺かれないために、赦すべき人も赦されるべき人も主の御前に出ることの大切さを語っています。ヨブ記の1章や2章でヨブに臨んだ悲劇は悪魔が人や自然を使ってもたらしたものですが、「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない(ヨブ記1章12節)」「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな(ヨブ記2章6節)」と仰せられたように、悪魔はヨブを殺すことはできなかったのです。悪魔の狙いはヨブが神をのろうことでしたが、ヨブは子どもたちや持ち物のすべてを失っても「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と、ヨブと見分けがつかないほどの悪性の腫物で苦しんでも「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けなければならない」と言って神をのろうこともせず罪を犯さなかったのですが、神はヨブが神をのろうことはしないことをご存知で悪魔の攻撃を許されたのではないでしょうか。悪魔はヨブに神をのろわせようとしましたが失敗し、姿を消したのでした。私たちの人生にも「どうして」とか「なぜ」と、理解できないような試練が臨むことがありますが、今日の聖句「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げます。」を思い起こして、問題や試練に、そこに関わっている悪魔や悪霊に目を止めるのではなく、ヨブを信頼されたように私たちをも信頼してそのことが起こることを許されている神を、耐えられないほどの試練に会わせることはしない神であることを心に据え、神にはご計画と目的があることを、私たちの益になることを教え歩むべき道に導いてくださる神(イザヤ書48章17節)を信頼して生きようではありませんか。