子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(ヨハネの手紙 第一 5章21節)

1.出エジプト記321節―32
2.イザヤ書44章6節ー22節
3.ローマ人への手紙120節―25
4.ピリピ人への手紙317節―19節:

モーセがシナイ山から降りてくるのに手間取ったために民がアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言ったので、アロンは「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」と言い、金の耳輪から金の子牛を造り「イスラエルよ、これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言ってその前に祭壇を築いて「あすは主への祭りである。」と言ったのでした。それはまさしくローマ人への手紙1章22節―24節が「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」と、語っているように、金の子牛になった金の耳飾りは、確かに人々の耳にあってエジプトの地から出て紅海を渡りましたが、アロンをはじめイスラエルの民は多くの奇蹟を体験しながらも愚かになったのでした。興味深いことにこの世の知者と言われる多くの方々でも、こと神に関しては伝統にならって偶像崇拝をしているのではないでしょうか。ところで、パウロの「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ人への手紙3章3章17節―19節)」ということばから、目に見える偶像を神とするだけでなく、欲望が神となっている現状を語っています。確かに、さまざまな宗教の根底には地上の豊かさ、個人の欲望がかなうようにという願いがあるのではないでしょうか。今日の聖句は「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と警告しています。私たちはこの世に生きている限り、この世のものが必要ですが、ヨハネの手紙 第一 2章15節―16節が「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父からでたものではなく、この世から出たものだからです。」と、ローマ人への手紙12章2節が「この世と調子を合わせてはいけません。」と警告しているように、この世の価値観や生き方に惑わされず、偶像や人が与えることのできない永遠のいのちや罪の赦しが与えられていることを感謝し、人々が偶像や欲望を神とせず、かえって真の神を求める心が与えられるように祈ろうではありませんか。