エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。(申命記33章26節)

1.ヨハネの福音書162節―10
2.使徒の働き11節―9
3.ペテロの手紙 第一318節―22

人は神によって創造された被造物であるために「神」の存在を心の深いところでは知っているのではないでしょうか。問題はローマ人への手紙1章20節ー23節が「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」と、語っているように創造者である神よりも神が創造した被造物を神としたことによって、さまざまな宗教を背景に持つ神々を拝むような状態に陥ってしまったのですが、今日の聖句が「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」と、エシュルン(イザヤ書44章2節から)、すなわち、イスラエルの民に、神がどのような方であるかを、しかもそれはイエス様の昇天を示しておられるのではないでしょうか。主は死からよみがえられ、弟子たちが見ている前で雲に包まれて見えなくなり、今は父なる神の右に座しておられ、私たちのためにとりなしておられる主をヨハネは「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(ヨハネの黙示録1章13節―16節)」と、十字架で苦しまれた主の姿とは全く異なっていることを語っています。祈りをささげる時、祈りをお聞きくださっている主は、神々をもやがてさばかれる方であり(詩篇82篇1節)、十字架の主ではなく、黙示録に見られる主であることを心に留めて祈ろうではありませんか。