聖書箇所

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙 第二5章21節)

<関連聖句>

1.マタイの福音書517節―20
2.ルカの福音書189節―14
3.ローマ人への手紙7章18節ー 8章3節
4.コリント人への手紙 第一126節―31

<メッセージ>

選民意識をもっていたユダヤ人、とくにパリサイ人や律法学者は自分を義人と自任し、他者を見下していたのですが、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」と語るとともに「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章17節及び20節)」と仰せられたのでした。パウロはパリサイ人として生きていた時の状態を「律法による義についてならば非難されるところのない者であった」と語るとともに、その頃は、キリストを信じる信仰によって神から与えられる義を知らずに、律法による自分の義に生き、教会を迫害していたことを告白しています(ピリピ人への手紙3章5節―9節)。神の義を知ったパウロは同胞のイスラエルの民について「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです(ローマ人への手紙10章1節―4節)」と、語っています。なぜなら、今日の聖句「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と語っているように、神の義はキリストによって現され、キリスト・イエスを信じる者に与えられるものだからです。しかし、キリスト者となり、神の義とされていても、この世を去るまでいろいろな点で間違いを起こしますが、それは聖潔に関わることであり、詩篇119篇142節が「あなたの義は、永遠の義」と、語っているように神の義は私たちの間違いによって取り消されるようなものではないことを、十字架での贖いのわざは、私たちの間違いによって取り消されるような軽いものではないことを心に留め、救われているかどうかを疑問視して安定を欠くような信仰生活に陥らないように、私たちが罪に定められないように、信仰がなくならないようにとりなしていてくださる主が今日も私たちとともに生きていてくださることを感謝して生きようではありませんか。