聖書箇所
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ人への手紙10章4節)
<関連聖句>
1.マタイの福音書5章17節—20節
2.ローマ人への手紙3章19節—26節
3.ローマ人への手紙8章3節—4節
<メッセージ>
人は、何か間違いを犯したときには良心の咎めを受けて罪意識を持つようなことがあっても、時間が立つとその意識も薄れ、自分と他者を比較し、「自分こそ正しい」というような考えのもとで自分の義に生きてしまいがちになるのではないでしょうか。しかし、イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネの福音書5章24節—29節)」と、人はイエス様によってさばかれる立場にあることを、そして善を行った者と悪を行った者に与えられるものが何であるかを語っていますが、ヤコブの手紙2章8節—10節が「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と、非常に厳しいことを語っていますが、確かに人は完全ではないので、律法を完全に守ることができず、かえって律法によっては罪の意識が生じるだけなので(ローマ人への手紙3章20節)、だれひとり神の前に義と認められることがないのですが、今日の聖句は「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と、十字架の刑を受けられ罪の代価を支払ってくださったイエス様を信じたならどんな人でも神の義をいただいて、神のさばきに会うことがなく永遠のいのちが与えられるという恵みを語っています。私たちは悔いるような様々な間違いをしますが、それによって信仰によって与えられた神の義が取り消され、罪に定められたり、神の愛や救いが取り消されたりされることはないことを感謝して生きようではありませんか(ローマ人への手紙8章33節—39節、コリント人への手紙 第一4章4節—5節)。