聖書箇所

ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇すしいわざを行う。(詩篇72篇18節)

<関連聖句>

1.ヨハネの福音書1224—28
2.ローマ人への手紙56—21
3.コリント人への手紙 第一21—9

<メッセージ>

パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。(ローマ人への手紙7章18節—24節)」と心の葛藤を語っていますが、それはすべての人が抱えている問題ではないでしょうか。罪人が罰を受けるのはあたりまえのことですが、神は罪人を救うために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになられたのですが、ヘブル人への手紙2章10節が「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と語っているように、イエス様は多くの苦しみを受けられただけでなく罪人の身代わりとなって十字架の死を受けられましたが、死からよみがえることによって死に勝利してくださったのでした。そして、イエス様を信じる者は、神にさばかれることなく、神の子とされ、永遠に全うされるという恵みが与えられたのです。全く罪のない義なる神が、罪人を救うためにいのちをささげる、ということは、この世や人の考えでは考えられないことではないでしょうか。ですから、今日の聖句は「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇すしいわざを行う。」と語っているのです。恵みとまことに満ちておられ、私たちの信仰を完成させてくださる主以外に神がおられないことを自覚し、心のうちにあるさまざまな問題や苦悩を正直に主に申し上げ、主がくすしいわざをなしてくださるように祈るとともに、すべてを益としてくださる主を信頼し、主をほめたたえて生きようではありませんか。