エレミヤ書17章14節
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私 をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だから です。
<関連聖句>
1.申命記10章16節―22節
2.詩篇22篇23節―25節
3.イザヤ書61篇1節−3節
<メッセージ>
ヤコブの伯父ラバンはヤコブが次女のラケルと結婚することを許しましたが、ラバンはヤコブをだましてレアとまず結婚させたのでした。主はレアがきらわれているのをご覧になって、レアの胎を開かれ男の子を授けたのですが、レアは「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と主のことを考えましたが、心はヤコブの愛を求めていたのでしたが、4人目の子が生まれた時「今度は主をほめたたえよう。」と、ヤコブの愛を求めたのではなく主ご自身に心を向けて主をほめたたえ「ユダ」と名付けたのでした(創世記29章21節―31節)。
ところで、ヨシュアの死後、イスラエル人が主に「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなくてはならないうでしょうか。」と尋ねると、「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」と、主は主をほめたたえる者、すなわち賛美者を先頭にするように言われたのでした。ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡され勝利を与えられたのでした((士師記1章1節―2節、4節)。
「賛美」というと、歌うことのように思われがちですが、ユダの由来を、また、詩篇100篇1節―5節の「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」、今日の聖句「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」を考慮すると、「賛美」は歌うこと以上の世界、すなわち主に目をとめ、主をほめたたえることではないでしょうか。
ユダ族であったダビデの子として御降誕されたイエス様が苦しみの中で父に祈りと願いをささげられたように(ヘブル人への手紙5章7節)、賛美歌や聖歌以外のゴスペルや新しい歌が歌えなくても、すべてが主にかかっていることを心に留めて主に助けを求め、「あなたこそ私の賛美」と告白して主が喜ばれる賛美者として生きようではありませんか。