人の子が来たのも、仕えられるためでなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのち与えるためなのです。(マルコの福音書10章45節)

1.ネヘミヤ記5章14節ー19節
2.ヨハネの福音書13章1節ー17節
3.ローマ人への手紙12章2節ー5節
4.ペテロの手紙第一4章7節ー10節

ヤコブとヨハネがイエス様に「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください。」と申し上げたのを知った十人がヤコブとヨハネのことで腹を立てたので、イエス様は「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められたい者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と仰せられてから「人の子が来たのも、仕えられるためでなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのち与えるためなのです。」とご自身の生き方について語られました。人はとかく偉くなりたい、とか人の上に立ちたいというような欲望に駆られてしまいがちであることを弟子たちに見ることが.できるのではないでしょうか。それにひきかえ、罪人を救うために人として遣わされたイエス様の生き方は正反対であることがわかります。イザヤ書7章14節やイザヤ書9章6節ー7節やイザヤ書53章には、はっきりとイエス様のことが預言されているにも関わらず、ユダヤ人はイエス様を受け入れずに十字架にかけたのですが、それは人には理解できない神のご計画だったのでした。ヨハネは福音書においてご自分の事を「イエスが愛された弟子」と称しましたが、ヨハネの手紙第二や第三の1節においては「長老」と、黙示録1章1節においては「しもべ」と称しておられます。自分を誇っていたペテロも、イエス様がおっしゃたように三度イエス様の事を知らないと言い挫折しましたが、聖霊に満たされると「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(ペテロの手紙第一4章10節)」と勧めています。パウロはキリスト者を迫害していましたが、それはイエス様を迫害した事であったことやイエス様が「わたしの兄弟たち、しかも最も小さいマ者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(タイの福音書25章40節)」と仰せられた事を、主の生き方を忘れないように、お互いに仕えて生活するように心がけようではありませんか。