OCC創立者の物語
創立者 アイリーン・ウェブスター・スミス
戦後日本の宣教は、荒廃した日本にキリストの福音を宣べ伝えるために強い召命感をもって来日した宣教師たちを抜きにしては語れない。彼らの愛と勇気に溢れる信仰による伝道活動があったからこそ、福音が日本に根づく第一歩が印されたといってもよいだろう。
OCCの創立者アイリーン・ウェブスタースミス師もその一人として輝く存在である。彼女は、当時の連合軍最高司令官マッカーサー元帥の特別許可を得て、いち早く、かつての宣教地、日本に帰って来て、日本の復興を担う若い学生たちへの伝道の重荷を持ち、今は日本の福音派の一大拠点となったセンターを設立した。このことは、彼女の時代を先取りする優れた才能を示すものとして特筆大書されなければならないことである。
師は、1888年4月11日、ウェールズに生まれた。10代のある日、ダブリン市でも有名なクリスチャン弁護士の家庭で開かれていた聖書研究会に出席することになった。そこで、生まれてはじめて、「あなたは、主イエス・キリストを自分の親しい救い主、また友として知っていますか。」という質問を受けた。彼女は、この質問に戸惑いを覚えた。その後、そこで、キリストを信じ、受け入れ、家に帰って、自分のベッドの脇にひざまずき、信仰の決心をした。当時の師の夢は、法廷弁護士となることで、そのための勉強、法律事務所での仕事、スラム街の伝道の手伝いで、その生活は充実したものだった。しかし、その時はすでに、彼女の内には海外宣教への主の働きかけが始まっていた。その働きかけは強くなる一方で、彼女はその思いを避けるため意識して、宣教集会に出席したり海外関係の機関紙を読んだりしないようにしていた。しかも、アル・クイグリーという神学生と将来を約束するまでになっていた。このような状況のもとで、彼女は毎晩「主と論じ合う」経験をすることになった。宣教師となる召命を受け入れることができなかったのである。
「主よ、私は宣教地に行くわけにはいきません。私は弁護士になるための勉強をしていますし、アルと将来を誓い合っています。」と祈った。
このような霊的葛藤の中で、救われて以来、毎月少なくとも一人は主に導いてきていたのに、とうとう2ヶ月間、誰も主に導けなくなってしまった。主への心も冷え、祈りはなおざりにされ、聖書に対する関心も失せていった。しかし、とうとう1915年のイースター礼拝で、悔い改め、「主よ。あなたが望まれるところでしたらたとえ地の果てまでも参ります。」と主に献身を誓った。
ふたたび、伝道所での奉仕に戻った師は、そこで日本伝道隊の二人の宣教師たちにふれ、1916年12月2日の朝、神戸港に着いた。日本には2年間いる約束だった。来日後、彼女は、慈愛館で若い女性たちの救済活動に捧げきっていた。師が、何をすべきかを主に祈っていた時、神のご計画に従って、クリスチャンの米軍将校が、自分が始めた大学生対象の聖書研究会を引き継いでくれるように師に求めてきた。すでに60歳を超えた身で学生伝道をすることには体力的な不安を感じはしたものの、主からの新しいチャレンジとして立ち上がった。こうして始まった東京での師の働きは、巣鴨刑務所に収容され戦犯の人たちにも及んだ。その中からも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、主の平安のうちに天に召されていった人たちがおこされた。必要とあれば、どんなことであれ、応答していくのが師の姿勢であった。センターの場所が与えられたいきさつもこの姿勢があったればこその主の奇跡のわざであった。
1971年、元気いっぱい日本を出発した師は、その旅の途中、突如として天に召された。これは、多くの者にとってショックであった。主に捧げられた一つの器が、主の御手に十分に用いられることによって限りない広がりをもつことを。師は今もなお、センターのさまざまな働きを通して語りかけておられる。
戦後日本の宣教は、荒廃した日本にキリストの福音を宣べ伝えるために強い召命感をもって来日した宣教師たちを抜きにしては語れない。彼らの愛と勇気に溢れる信仰による伝道活動があったからこそ、福音が日本に根づく第一歩が印されたといってもよいだろう。
OCCの創立者アイリーン・ウェブスタースミス師もその一人として輝く存在である。彼女は、当時の連合軍最高司令官マッカーサー元氏の特別許可を得て、いち早く、かつての宣教地、日本に帰って来て、日本の復興を担う若い学生たちへの伝道の重荷を持ち、今は日本の福音派の一大拠点となったセンターを設立した。このことは、彼女の時代を先取りする優れた才能を示すものとして特筆大書されなければならないことである。
師は、1888年4月11日、ウェールズに生まれた。10代のある日、ダブリン市でも有名なクリスチャン弁護士の家庭で開かれていた聖書研究会に出席することになった。そこで、生まれてはじめて、「あなたは、主イエス・キリストを自分の親しい救い主、また友として知っていますか。」という質問を受けた。彼女は、この質問に戸惑いを覚えた。その後、そこで、キリストを信じ、受け入れ、家に帰って、自分のベッドの脇にひざまずき、信仰の決心をした。当時の師の夢は、法廷弁護士となることで、そのための勉強、法律事務所での仕事、スラム街の伝道の手伝いで、その生活は充実したものだった。しかし、その時はすでに、彼女の内には海外宣教への主の働きかけが始まっていた。その働きかけは強くなる一方で、彼女はその思いを避けるため意識して、宣教集会に出席したり海外関係の機関紙を読んだりしないようにしていた。しかも、アル・クイグリーという神学生と将来を約束するまでになっていた。このような状況のもとで、彼女は毎晩「主と論じ合う」経験をすることになった。宣教師となる召命を受け入れることができなかったのである。
「主よ、私は宣教地に行くわけにはいきません。私は弁護士になるための勉強をしていますし、アルと将来を誓い合っています。」と祈った。
このような霊的葛藤の中で、救われて以来、毎月少なくとも一人は主に導いてきていたのに、とうとう2ヶ月間、誰も主に導けなくなってしまった。主への心も冷え、祈りはなおざりにされ、聖書に対する関心も失せていった。しかし、とうとう1915年のイースター礼拝で、悔い改め、「主よ。あなたが望まれるところでしたらたとえ地の果てまでも参ります。」と主に献身を誓った。
ふたたび、伝道所での奉仕に戻った師は、そこで日本伝道隊の二人の宣教師たちにふれ、1916年12月2日の朝、神戸港に着いた。日本には2年間いる約束だった。来日後、彼女は、慈愛館で若い女性たちの救済活動に捧げきっていた。師が、何をすべきかを主に祈っていた時、神のご計画に従って、クリスチャンの米軍将校が、自分が始めた大学生対象の聖書研究会を引き継いでくれるように師に求めてきた。すでに60歳を超えた身で学生伝道をすることには体力的な不安を感じはしたものの、主からの新しいチャレンジとして立ち上がった。こうして始まった東京での師の働きは、巣鴨刑務所に収容され戦犯の人たちにも及んだ。その中からも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、主の平安のうちに天に召されていった人たちがおこされた。必要とあれば、どんなことであれ、応答していくのが師の姿勢であった。センターの場所が与えられたいきさつもこの姿勢があったればこその主の奇跡のわざであった。
1971年、元気いっぱい日本を出発した師は、その旅の途中、突如として天に召された。これは、多くの者にとってショックであった。主に捧げられた一つの器が、主の御手に十分に用いられることによって限りない広がりをもつことを。師は今もなお、センターのさまざまな働きを通して語りかけておられる。
戦後日本の宣教は、荒廃した日本にキリストの福音を宣べ伝えるために強い召命感をもって来日した宣教師たちを抜きにしては語れない。彼らの愛と勇気に溢れる信仰による伝道活動があったからこそ、福音が日本に根づく第一歩が印されたといってもよいだろう。
OCCの創立者アイリーン・ウェブスタースミス師もその一人として輝く存在である。彼女は、当時の連合軍最高司令官マッカーサー元氏の特別許可を得て、いち早く、かつての宣教地、日本に帰って来て、日本の復興を担う若い学生たちへの伝道の重荷を持ち、今は日本の福音派の一大拠点となったセンターを設立した。このことは、彼女の時代を先取りする優れた才能を示すものとして特筆大書されなければならないことである。
師は、1888年4月11日、ウェールズに生まれた。10代のある日、ダブリン市でも有名なクリスチャン弁護士の家庭で開かれていた聖書研究会に出席することになった。そこで、生まれてはじめて、「あなたは、主イエス・キリストを自分の親しい救い主、また友として知っていますか。」という質問を受けた。彼女は、この質問に戸惑いを覚えた。その後、そこで、キリストを信じ、受け入れ、家に帰って、自分のベッドの脇にひざまずき、信仰の決心をした。当時の師の夢は、法廷弁護士となることで、そのための勉強、法律事務所での仕事、スラム街の伝道の手伝いで、その生活は充実したものだった。しかし、その時はすでに、彼女の内には海外宣教への主の働きかけが始まっていた。その働きかけは強くなる一方で、彼女はその思いを避けるため意識して、宣教集会に出席したり海外関係の機関紙を読んだりしないようにしていた。しかも、アル・クイグリーという神学生と将来を約束するまでになっていた。このような状況のもとで、彼女は毎晩「主と論じ合う」経験をすることになった。宣教師となる召命を受け入れることができなかったのである。
「主よ、私は宣教地に行くわけにはいきません。私は弁護士になるための勉強をしていますし、アルと将来を誓い合っています。」と祈った。
このような霊的葛藤の中で、救われて以来、毎月少なくとも一人は主に導いてきていたのに、とうとう2ヶ月間、誰も主に導けなくなってしまった。主への心も冷え、祈りはなおざりにされ、聖書に対する関心も失せていった。しかし、とうとう1915年のイースター礼拝で、悔い改め、「主よ。あなたが望まれるところでしたらたとえ地の果てまでも参ります。」と主に献身を誓った。
ふたたび、伝道所での奉仕に戻った師は、そこで日本伝道隊の二人の宣教師たちにふれ、1916年12月2日の朝、神戸港に着いた。日本には2年間いる約束だった。来日後、彼女は、慈愛館で若い女性たちの救済活動に捧げきっていた。師が、何をすべきかを主に祈っていた時、神のご計画に従って、クリスチャンの米軍将校が、自分が始めた大学生対象の聖書研究会を引き継いでくれるように師に求めてきた。すでに60歳を超えた身で学生伝道をすることには体力的な不安を感じはしたものの、主からの新しいチャレンジとして立ち上がった。こうして始まった東京での師の働きは、巣鴨刑務所に収容され戦犯の人たちにも及んだ。その中からも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、主の平安のうちに天に召されていった人たちがおこされた。必要とあれば、どんなことであれ、応答していくのが師の姿勢であった。センターの場所が与えられたいきさつもこの姿勢があったればこその主の奇跡のわざであった。
1971年、元気いっぱい日本を出発した師は、その旅の途中、突如として天に召された。これは、多くの者にとってショックであった。主に捧げられた一つの器が、主の御手に十分に用いられることによって限りない広がりをもつことを。師は今もなお、センターのさまざまな働きを通して語りかけておられる。
略年表
1949年 12月27日 |
土地家屋購入 |
---|---|
1954年 2月12日 |
創立理事会 |
1955年 4月24日 |
本館1・2階完成 献堂式 |
1960年 | 本館3・4階増築 |
1964年 12月18日 |
宗教法人設立認証 |
1966年 10月20日 |
西館増築献堂式 |
1967年 | ビリーグラハム東京国際大会に協力 |
1970年 9月22日 |
第一回評議委員会 |
1971年 11月10日 |
ウエブスター・スミス師召天 |
1973年 10月21日 |
中央館増築献堂式 |
1980年 | ビリーグラハム東京国際大会に協力 |
1982年 4月2日 |
南館起工式 |
1983年 7月1日 |
南館献堂式 |
1984年 5月12日 |
OSCC35周年記念 オルフォード師 |
1989年 6月26日 |
北館起工式 |
---|---|
1989年 7月1日 |
お茶の水クリスチャンセンターと名称変更 |
1990年 10月1日 |
ゴスペル’90武道館に協力 |
1991年 3月20日 |
北館献館式 |
1991年 4月22日 |
お茶の水聖書学院/OBI開講式 |
1994年 1月13日 |
ビリーグラハム東京国際大会に協力 |
1998年 4月6日 |
岸田肇理事長就任 |
2002年 4月6日 |
本田弘慈師召天 |
2004年 8月6日 |
岸田肇理事長退任 |
2004年 11月26日 |
村上宣道師、新理事長に就任 |
2007/平成19 6月25日 |
デリ・フランス 開店 |
2009/平成21 11月16日 |
創立60周年記念感謝会 |