もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。(コリント人への手紙第二2章10節)

1.詩篇139篇1節ー16節
2.マタイの福音書6章7節ー15節
3.エペソ人への手紙4章26節ー32節
4.コロサイ人への手紙3章2節ー13節 

十字架に架けられたイエス様は道を行く人々からののしられたり、祭司長や律法学者たちからあざけられただけでなく、同じようにイエス様の右と左に十字架に架けられたふたりの強盗たちからもののしられましたが(マルコの福音書15章27節ー32節)、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、執りなして祈られたのでした。その祈りを聞いても悪口を言っていた強盗にもうひとりの強盗は「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめてから「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、イエス様は罪を赦されただけでなく、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束されたのでした。ヨハネは「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。(ヨハネの手紙第一4章9節)」と語っていますが、彼は十字架につけられイエス様のそばにいたので、イエス様のとりなしの祈りを聞かれたのではないでしょうか。パウロは赦すと言うことに関して、「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。」と、単にその人に向かって赦すというよりも「キリストの御前で赦したのです。」と、いうことは、赦したはずなのに、何かの拍子に思い出してしまうような赦し方ではなく、イエス様が十字架上で執りなして祈られただけでなく、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げた強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と希望を、いのちを与えられたように、赦したなら二度とそのことに触れないことを意味するのではないでしょうか。イエス様が教えてくださった祈りの中の「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と祈る時、パウロのようにキリストの御前で祈っていることを忘れないようにしようではありませんか。