いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった者と住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためでる。(イザヤ書57章15節)

1.詩篇34篇15節ー22節
2.マルコの福音書14章32節ー42節
3.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
4.ヤコブの手紙4章1節ー10節

イザヤは「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなられる方が、」と第三の天に座しておられる私たちの信じている神について語ってから、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった者と住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためでる。」と主からのメッセージを伝えています。ダビデも「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを、喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。」と、サムエルがサウルに「主は主の御声に聞き従うことはほどに、全焼のいけにえや、その他のいけに絵を喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。(サムエル記第一15章17節ー23節)」と、語っているように、主の御心を知っていながら故意に犯した罪のためのいけにえを主は受け入れないことを知っておられただけでなく、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇16節ー17節)」と、神が受け入れてくださるいけにえについて語っていますが、それは、主が「心砕かれて、へりくだった者と住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためでる。」と仰せられたことを経験されたからではないでしょうか。イエス様はゲッセマネの園で地面にひれ伏して、もしできるのとなら、この時が自分から過ぎ去るように祈り「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と一度だけでなく三度も同じことばで祈られたように(マルコの福音書14章35節ー41節)、イエス様は神のご計画が成就するためにご自身をお捨てになられ(ヨハネの福音書10章17節)、心砕かれて、へりくだった者のあり方の模範を示されたのではないでしょうか。パウロはテモテに「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。(テモテへの手紙第二2章8節)」と勧めているように、世の人々のように自分を生かそうとするのではなく、恵みとまことを実現してくださったイエス様のことを仰ぎ見て恵みをむだにしないような生き方をするように心がけようではありませんか。