神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた永遠(口語訳:永遠を思う思い)を与えられた。しかし人は、神がなされるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節) 創世記1章1節ー31節 マタイの福音書24章31節ー36節 ヨハネの福音書13章1節ー7節
ペテロの手紙第二3章3節ー10節

ソロモンはまず「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」と語ってから「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」と語ってから「植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある・・・・・等々」と一生の間に時に応じて経験することを語ってから、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた永遠(口語訳:永遠を思う思い)を与えられた。しかし人は、神がなされるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と神の時について語っています。ところで、創世記1章3節ー5節が「神は仰せられた。『光があれ』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみをよると名づけられた。第一日」と語っているように、日時は神によって創造されましたが、ヨハネはイエス様のことを「ことば」と表現され「初めに、ことばがあった。ことばは神であった。この方は初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1章1節ー3節)」と、創世記1章以前の世界を語っているように、神は時間の創造者であり、時間そのものの始まりと終わりを超越した存在であるがゆえに、ペテロが「主の御前では、一日は千年のごとく、千年は一日のようです。」と語っているように、神の時は私たちには理解できないものですが、創世記1章31節は「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」と、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」を、ペテロに「わたしがしていることは、今はあなたにわからないが、あとでわかるようになります。(ヨハネの福音書13章7節)」と仰せられたイエス様のことばをしっかり握って、主の時を待ち望んで生きるようにしようではありませんか。