「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテへの手紙第一1章15節ー16節)

1.ルカの福音書5章27節ー32節
2.使徒の働き26章8節ー23節
3.ローマ人への手紙7章18節ー8章3節
4.コリント人への手紙第一4章4節ー6節

パリサイ人として生活していた時のパウロはキリストを信じる信仰によって神から与えられる神の義を知らなかっただけでなく、「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と豪語していましたが、キリスト者になり聖霊に満たされたパウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・・もし私が自分でしたくないことをしているのでれば、それをお行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住む罪(口語訳:罪の力)です。」と罪に支配されている自分を知り、自分がいかにみじめなものであるかを思い知らされるとともにキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない(ローマ人への手紙7章20節―8章1節)と宣言されただけでなく、さらに「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38節ー39節)」と断言した根拠は「十字架の死と復活」でした。パウロのように、自分のみじめさを思い知らされる時こそ、今日の聖句「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」を思い起こし、全生涯の罪に対する刑罰をイエス様が十字架で受けてくださっただけでなく、永遠のいのちが与えられていることを、恵みによって救われていることを感謝するだけでなく、教会を迫害したにもかかわらずキリストの証人とされたパウロのようにどんなことがあっても、私たちがどのような者であってもキリスト・イエスにある神の愛は決して消滅しないという確信をもって生きるようにしようではありませんか。