私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべての名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(エペソ人への手紙3章14節ー16節)

1.使徒の働き2章2節ー25節
2.ローマ人への手紙7章18節ー8章3節
3.コリント人への手紙第二4章13節ー18節
4.ペテロの手紙第二1章1節ー4節 

キリスト者になり聖霊に満たされたパウロは「私は、私のうち、すなわち私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と悩みましたが、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と語るとともに、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」という確信を持つに至ったのでした(ローマ人への手紙7章18節ー8章1節及び8章38節ー39節)。そのパウロは「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(コリント人への手紙第二4章16節)」と語っていますが、「外なる人」は私たちの身体のことだけでなく、イスラエルの民が不信の罪を犯したように、試練に会うと私たちの信仰が弱ってしまうことをも意味するのではないでしょうか。自分の弱さを経験したパウロが「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と、祈られたように、自分の弱さを嘆いたり「信じます。信じます。」と、言い聞かせて自分の力でなんとか強くなろうとするのではなく、内なる人を強くしてくださるのは御霊の働きであることを忘れず、ヘブル人への手紙4章14節が「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、内なる人を強めてくださる聖霊を悲しませることのないように、恵みとまことに満ちておられ、私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださる主を仰ぎ見て生きようではありませんか。