私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(コリント人への手紙第一15章3節ー5節)
1.マタイの福音書16章16節-26節
2.コリント人への手紙第一1章18節ー31節
3.テモテへの手紙第一1章12節ー17節
4.ペテロの手紙第一1章3節ー9節
イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイの福音書16章26節)」と仰せられましたし、詩篇49篇7節ー9節は「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。ーたましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならないー人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。」と絶望的な状態を語っているのは、全ての人は過ちや罪を犯し続けながら生活しているからです。神は絶望的な状況から人類を救うために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになり、十字架の死をもって罪に対する罰を私たちの代わりに受けてくださり、罪に対する神の怒りからも解放してくださり、神の怒りの代わりに神の愛を受けて生きることができるようにしてくださったのでした。ですから、パウロは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章4節ー6節)」と、神様の願いは救われるだけでなく、真理を知って生きることを願っていること、十字架の意味をも語られるとともに、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」と、「ケパ」」すなわち三度イエス様を知らないと言ったペテロや主を見捨てた弟子たちに、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と仰せられたように復活されたイエス様の方からご自身を現わされたことをも語られ、聖書、すなわちみことばの確かさを強調しています。全生涯の罪が赦され、永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この世の価値観や生き方、風潮に惑わされないようにしようではありませんか。
