平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(テサロニケへの手紙第一5章23節ー24節)

1.ヨハネの福音書17章13節ー20節
2.ローマ人への手紙15章8節ー16節
3.エペソ人への手紙1章3節ー6節
4.ペテロの手紙第一1章5節ー21節 

ゼカリヤ書3章1節ー5節に、ヨシュアは大祭司でありながら汚れた服を着ていたこと、御使いが「彼の汚れた服を脱がせよ」と言ってからヨシュアに対して「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」と言われたように、ヘブル人への手紙10章1節ー4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことはできません。」と語っているように、捧げものによって罪は赦されても取り除かれないことを語っています。ところで、バプテスマのヨハネはイエス様について「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言われたように、ヘブル人への手紙10章14節が「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と語っているように、イエス様は律法にはできないことをしてくださいました。テサロニケにおいては皇帝礼拝が盛んなされていたために皇帝礼拝を拒否することは、皇帝への反逆と見なされテサロニケのキリスト者は厳しい状況下にあっために、パウロは「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」と祈るとともに「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」と励まされたのでした。ペテロが、「私たちの信仰と希望は神にかかっている」と語っているように、恵みとまことに満ちておられるイエス様が信仰がなくならないように祈り、日々私たちを守っていてくださることを忘れずに主を喜んで生きるようにしようではありませんか。