神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(テサロニケへの手紙第一5章9節)
1.ヨハネの福音書3章16節ー18節
2.使徒の働き4章7節ー13節
3.ローマ人への手紙5章6節ー10節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節
神は愛ですが、正義の神でもあるために罪に対しては厳しく対処されることを旧約聖書の記事に見ることができます。ですからパウロはキリスト者になる前の状態について「あなたがたは自分の罪禍と罪の中で死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪禍の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ人への手紙2章1節ー5節)」と、「罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)」と語っているように、イエス様は恵みとまことを実現してくださり、死をもたらす全生涯の罪から贖ってくださったために、パウロが「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」と語っているように、イエス様は死からよみがえられ父の右の座について罪に定められないようにとりなしていてくださることを、神の怒りからも救われていることを忘れずに、主を誉めたたえて生きようではありませんか。
