私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。(ピリピ人への手紙1章9節ー10節)

1.エペソ人への手紙3章16節ー19節
2.コロサイ人への手紙3章9節ー14節
3. ペテロの手紙第一4章7節ー9節
4.ヨハネの手紙第一4章1節ー21節

ギリシャ語には愛を表現することばが四つあります。「エロス」は男女間の愛で、「ストルケ」は親子の愛、「フィレオ」は友情、そして「アガペ」は神の愛を意味します。ところで全ての人は生まれながら、「エロス、ストルケ、フィレオ」の愛を持っていますが、それらの愛は感情によるものであるために、一時「成田離婚」という言葉が流行ったように、愛が冷えてしまったり、憎しみやねたみに変わってしまうようなコンデイションに支配されるために、非常にもろいものではないでしょうか。しかし、神の愛はヨハネが「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と語ってから「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と勧めています(ヨハネの手紙第一4章10節)ー11節)。罪人を救うために十字架に架けられたイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」と、人々のためにとりなして祈られ、神の愛を明らかにされたのでした。ところで、パウロは神の愛は聖霊によって心に注がれることを語っていることから、神の愛はキリスト者しか持っていないことがわかります。パウロは「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」と祈っておられます。私たちの愛はこの世が与えることのできない神の愛であり、神のみこころは神の愛を注いでくださる聖霊が、神の霊感によって書かれた聖書、すなわちみことばであることを忘れずに、聖霊を悲しませたり、消す、すなわち聖霊様が働けなくような状態にならないように、神の愛に生きられたイエス様のことを思って生きるようにしようではありませんか。