万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(ペテロの手紙第一4章7節ー8節)

1.ルカの福音書23章32節ー43節
2.ヨハネの福音書15章9節ー12節
3. エペソ人への手紙1章17節ー23節
4.ピリピ人への手紙2章6節ー11節

イエス様は弟子たちに「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネの福音書16章24節)」と仰せられたように、キリスト者は主の御名によって祈りますが、ペテロは「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」と、祈るときの心構えや動機を語っておられます。イエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。・・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章9節及び12節)」とキリスト者が互いに愛し合うことを願われたのですが、イエス様は「わたしの愛の中に」と、人が生まれながら持っている愛、すなわち「ギリシャ語:エロス(男女間の愛)、ストルケ(親子の愛)、フィレオ(友情)」ではなく「アガパオ(神の愛)」で愛し合うように仰せらられたのでした。ところで、神の愛は聖霊によって心に注がれるためにキリスト者しか持っていません(ローマ人への手紙5章5節)。イエス様は、イエス様のことをあざ笑ったり、悪口を言ったりした人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」と、とりなして祈られたのでしたが、そこに神の愛が示されたのでした。ところで、パウロは「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです(ピリピ人への手紙2章10節ー11節)」と御名の権威を語っています。祈る時、主の御名の権威を、十字架で祈れらたイエス様のことを思い起こして神の愛で祈ろうではありませんか。