正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。(詩篇64篇10節)
1.詩篇16篇7節ー11節
2.詩篇33篇1節ー5節
3.ピリピ人への手紙3章2節ー16節
4.ピリピ人への手紙4章4 節ー7節
サウル王からいのちを狙われたダビデは「正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。」と、正しい者、すなわち自分の義に生き、自分は正しいと考えている人ではなく、神との関係において正しい者とされた人は主に身を避けることによって、喜べれないような状態にあっても、喜ぶことができること、喜びの根源は主との関係によって成り立つことを語っています。囚われの身であったにもかかわらずパウロも「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。(ピリピ人への手紙3章1節)」と、また「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」と語ってから、やはり「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いごとを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる主の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と、私たちの心と思いが守られるために、自分の思いを主に委ねて祈るように勧めていますし、「心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。」と語っているようにパウロは神の選びについて語ってから、エレミヤ書9章24節を引用されて「誇る者は主を誇れ」と言われました。イエス様は「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。(マタイの福音書5章11節ー12節)」と仰せられました。主にあって喜ぶことができる秘訣は、主がどのような方であるのかを、恵みによって神から私たちに賜ったものを思い起こすことにあるのではないでしょうか。恵みによって救われていることを喜んで生きるようにしようではありませんか。
