神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ人への手紙1章19節)

1.民数記13章17節ー14章31節
2.マルコの福音書16章9節ー20節
3.ヨハネの福音書14章1節ー14 節
4.ピリピ人への手紙4章10節ー13節

パウロはエペソの聖徒たちのために「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と願われましたが、それは私たちに対するものでもあるのではないでしょうか。「私はパウロにつく」「私はアポロに」と、「私」に生きていたコリントの教会のキリスト者と同じように自分に生きてしまうと、ちょうど士師記の時代のイスラエルの民のように、神に救いを求めず、サムソンに対してペリシテ人が自分たちの支配者であることを知らないのか、などと言ったように、聖霊の宮であることを忘れてしまい(コリント人への手紙第一6章19節)、聖霊を悲しませたり(エペソ人への手紙4章30節)、聖霊を消してしまう(テサロニケへの手紙第一5章19節)、すなわち肉の思いに支配されて聖霊が働けないような状態に陥ってしまい、神の力を体験できなくなってしまうのではないでしょうか。ヤコブの手紙5章17節ー18節に「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」とあります。エリヤは神が言われたように行なって450人のバアルの預言者に勝利されたにもかかわらず、イザベルから脅されると、イザベルを恐れて逃げたのでした(列王記第一18章7節ー19章3節)。ですから、ヤコブはエリヤは私たちと同じような人でしたと語っているのではないでしょうか。私たちは、アブラハムやモーセ、ヨシュアやカレブ、サムエルやダビデを、新訳聖書において、神は御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになり十字架の死と復活をもって神の愛や恵み、神の力と権威を、ペテロやパウロを用いて神がどれがどれほどのことをされたのかをみことばによって知っていますが、知っているだけでなく、彼らを用いられた神と同じ神が、イエス様が私たちの心に聖霊なる神として内住しておられることを認めて、神の偉大な力を体験しながら生きるように聖霊様に助けていただこうではありませんか。