ある人たちの罪は、それはさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。(テモテへの手紙第一5章24節ー25節)
1.マタイの福音書25章31節ー46節
2.コリント人への手紙第一4章3節ー5節
3.コリント人への手紙第二5章7節ー12節
4.ヘブル人への手紙6章10節ー12節
ヘブル人への手紙9章27節が「人には一度死ぬことと死後、神のさばきを受けることが定まっている、」と、語っているように、人には永遠が与えらているので、人は死んでその存在がなくなるのではなく、「ある人たちの罪は、それはさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」と語っているように人の目に触れないような罪や良い行いもすべて見ておられる神の御前にすべての人は立たされるのです。ところで、パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ってさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章4節ー5節)」と、キリスト者の場合は、罪に定められることがないことを語っています(ローマ人への手紙8章34節)。ですから恵みによって永遠のいのちが与えられ、やがて栄光の姿に変えられることを知っておられたパウロは「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。(コリント人への手紙第二5章10節ー11節)」と、主がどのような方なのかを知っているがゆえに福音宣教の働きをしていることを話されるとともに、コリントの聖徒たちも恵みを無駄にしないように生きることを願っているのではないでしょうか。ソロモンは「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者の書12章13節ー14節)」と勧めているように主がどんな偉大な方であるのかを忘れずに人々が主を知り主を信じて救われるように祈ろうではありませんか。
