主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。(箴言18章10節)
1.詩編148篇1節ー14節
2. ルカの福音書10章17節ー20節
3.ヨハネの福音書16章19節ー24節
4.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
サウルとイスラエルの民が恐れていたゴリアテに、ダビデは「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、お前の頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」と告げて石投げと一つの石で勝利したのでした(サムエル記第一17章10節ー11節及び45節ー50節)。ダビデはサウル王や民と違って主の御名の権威と力をご存じだったことがわかります。パウロはイエス様は十字架の死にまで従われたのですべての名にまさる名を神がお与えになったのは「イエスの御名によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ人への手紙2章8節ー11節)」と語っています。イエス様は「誠に、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上せ解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイの福音書18章18節)」と仰せられましたし、今日の聖句も「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」と、主の名がどれほどのものであるかを語っていますが、私たちは主の御名によって祈りますが、ダビデやパウロのように御名の権威と力がどれほどのものであるのかをあまり考えないのではないでしょうか。主の御名で祈る時、主の御名がどれほどの権威と力をもっているものであるのかを思い起こすようにしようではありませんか。
