神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。(ヨハネの手紙第一2章6節)

1.ヨハネの福音書13章1節ー17節
2.ローマ人への手紙15章1節ー13節
3.エペソ人への手紙4章26節ー32節
4.ピリピ人への手紙2章3節ー16節

ヨハネの福音書13章1節に「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された。」とありますが、その愛をどのように示されたかというと、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手拭いで拭く、という奴隷の仕事をもってお示しになられてから、「主であり師であるこ主のわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」と話されました。パウロは、教会を迫害していたにもかかわらず、罪人のかしらである自分が主のあわれみを受けたのは、イエス・キリストが今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったから(テモテへの手紙第一1章13節ー16節)、と語るとともに、ヨハネが「 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」と命じておられるように、パウロも「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください(コリント人への手紙第一11章1節)」とコリントのキリスト者たちもパウロと同じようにキリストを見習って生きるように勧めています。イエス様は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコの福音書10章45節)」と言われたことを忘れずに、私たちのために犠牲となられた主が喜ばれる生き方を心がけようではありませんか。