私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(哀歌3章40節ー41節)
1.創世記29章31節ー35節
2.出エジプト記17章11節ー16節
3.詩篇134篇1節ー3節
4.マタイの福音書22章34節ー40節
この世での「手を上げる」という行為は、賛成するために手を上げることがあれば、強い相手には降参する時や怒りに任せて相手を殴ろうとするなど、手はさまざまな働きをしますが、往々にして他者との関係の中で行われますが、その動きは感情によって左右されるのではないでしょうか。ところでパウロは「まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられるようにしなさい。・・・そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」と語ってから「私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と勧めているのは、「手を上げる」という行為はキリスト者は神との関係においてなすべきことであることを奨励しています。モーセが手を上げているときはアマレク人との戦いにおいてイスラエルが優勢であったように手を主に向かって上げて助けを求めるなら、主は勝利を与えてくださるのです。ところで今日の聖句は「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」と、人の目に見える手だけでなく、人の目に見えない心をも神に向けて上げるように勧めているのは、主は私たちの心を見ておられるからではないでしょうか。レアは子を授かると「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう」と、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子どもを授けてくださった。」とそして三人目が生まれた時には「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と心はヤコブの愛を求めていたのですが、四人目を産んだ時には「今度は主をほめたたえよう」と言って、ヤコブの愛を求めずその子の名をユダと名付けたのでした。主は戦いに出る時、ユダ部族を先頭に立てるように仰せられ、彼らが主をほめたたえると主は勝利を与えられたのでした。心が元気を失ったり、疲れ果てている時、死からよみがえられ天に座しておられる勝利の主を仰ぎ見て(ヘブル人への手紙12章3節)、主に向かって祈りの手を上げるとともに、救われていることを、どんなことがあってもキリスト・イエスにある神の愛から引き離されることがないことを心から感謝し、主をほめたたえようではありませんか。
