お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ人への手紙4章32節)
1.マタイの福音書6章5節ー15節
2.マタイの福音書11章28節ー30節
3.コリント人への手紙第二2章10節ー11節
4.コロサイ人への手紙3章2節ー15節
パウロは「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」と、ご自分のことを「罪人のかしらです。」と語ってから「そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」と神のあわれみと恵みを知った彼は(テモテへの手紙第一1章13節ー16節)、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ人への手紙4章26節ー27節)」と警告しているのは、悪魔は神のことを思わせないように仕向け、肉の行いに走らせようとするからではないでしょうか。憤りは肉の行いであり(ガラテヤ人への手紙5章20節)、人の怒りは、神の義を実現することができないからではないでしょうか(ヤコブ1章20節)。キリスト者が悪魔の罠に陥らないために「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、キリスト者がお互いに親切にし、心の優しい人となるために、全生涯の罪が赦されていることを忘れないように勧告しているように、彼は「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなた方がのために、キリストの御前で赦したのです。」と語っているように実践されたのでした。一万タラント(六千万デナリ)の負債を赦されているにも関わらず、赦されていることが信じられずに百デナリの借金のある同僚を赦せなかった僕のようにではなく(マタイの福音書18章21節ー30節)、十字架上で人々のために取りなして祈られた心優しいイエス様のような(マタイの福音書11章29節)心優しい者になるために、怒ったり、憤るようなことが起きた時にこそ全生涯の罪が赦されていることを思い起こそうではありませんか。
