主よ。私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にもたたないむなしいものばかりだった。人間は自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ書16章19節ー20節)
1.列王記第一18章16節ー39節
2.イザヤ書44章6節ー20節
3.使徒の働き19章1節ー41節
4.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
この世には数えきれないほどの宗教があり、人の手によって造られたさまざまな像を神々として崇めているのは人は神によって創造されたがゆえではないでしょうか。ですからパウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物とかえてしまいました。(ローマ人への手紙1章16節ー25節)」と語っているのではないでしょうか。ところで、人が死を恐れる要因をヘブル人への手紙9章27節が「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」と、パウロが「私たちは、みなキリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(コリント人への手紙第二5章10節)」と語っているように死後、裁かれることを知っているからではないでしょうか。リバイバルが起きると人々は今日の聖句が語っているように、「主よ。私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。『私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にもたたないむなしいものばかりだった。人間は自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない』」と告白することが見られます(使徒の働き19章1節ー41節)。偶像崇拝している人々の心の目が開かれ福音宣教の働きが推し進められますように祈ろうではありませんか。
