弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカの福音書6章40節)
1.コリント人への手紙第二3章6節ー18節
2.ピリピ人への手紙1章1節ー6節
3.テモテへの手紙第二3章12節ー17節
4.ヘブル人への手紙12章4節ー11節
イエス様は「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」と仰せられました。イエス様はご自身のことを「世の光」と、「あなたがたは世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしない。」と弟子たちに仰せられたのですが、それはキリスト者に仰せられていることにもなるのではないでしょうか。ヤコブの手紙1章3節ー4節には「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びとしなさい。信仰が試されると忍耐が生じるとういうことを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。ヘブル人への手紙12章3節が私たちの心が元気を失ったり、疲れないために罪人の反抗を忍ばれたイエス様のことを考えるように語っているように、イエス様ご自身が多くの苦しみによって従順を学び完全な者となられたことを(ヘブル人への手紙5章7 節ー9節)、ヘブル人への手紙12章5節ー6節の「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そしてあなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」を、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(同章10節ー11節)」を心に据えて神の子とされていることを忘れないようにしようではありませんか。
