熱心だけで知識のないのはよくない。(箴言19章2節)
1.マルコの福音書2章23節ー3章6節
2.ヨハネの福音書8章1節ー12節
3.ローマ人への手紙9章24節ー10章4節
4.ローマ人への手紙11章25節ー12章2節
パウロは律法による自分の義に生きていたときにはキリストを信じる信仰によって神から与えられる義を知らずに、ステパノのメッセージや石を投げつけられていても「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と、ひざまずいて大声で叫んだのを聞いていたにもかかわらず、ステパノを殺すことに賛成しただけでなく、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えて、教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れるようなことをしていたのですが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコへの途上でイエス様から声をかけられ、キリスト者となったパウロは(使徒の働き7章51節ー8章3 節及び26章9節ー18節)、彼を迫害している同胞のユダヤ人(イスラエル)について「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。(ローマ人への手紙10章1節ー3節)」と証されました。パリサイ人や律法学者は律法に精通し、律法を守ることに熱心でしたが、神の知恵を知らずに栄光の主を十字架につけたのですが、そこには人には理解できない神のご計画があったのでした。バッハは「我、汝を呼ぶ」というコラールの歌詞に「私に正しい信仰をお与えください。」とあります。今日の聖句が語っているように、新興宗教の信者たちのように、ただ熱心に拝むのではなく、神が、イエス様がどのような方であるかを忘れずに、神を、恵みを知ったパウロのようにキリストの証人として、恵みをむだにしないように主を信頼し、主を誉めたたえて生きようではありませんか。
