みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(ヤコブの手紙1 章23節ー25節)
1.ヨハネの福音書15章9節ー17節
2.ローマ人への手紙10章1節ー13節
3.コリント人への手紙第二3章6節ー18節
4.ガラテヤ人への手紙5章13節ー25節
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就します。(マタイの福音書5章17節ー18節)」と、律法を完全に成就してくださることをハッキリ宣言されました。ですから、パウロは「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ人への手紙10章4節)」と語っています。ヤコブが「完全な律法、すなわち自由の律法」と、ヨハネがイエス様は恵みとまことに満ちておられる方であることを語ってから「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。(ヨハネの福音書1章14節及び16節ー17節)」と語っているようにモーセの律法とは異なるからではないでしょうか。罪や死、神の裁きから救ってくださったイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように(アガパオ=神の愛で愛したように)、あなたがたも互いに愛し(アガパオ)合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章12 節)」と仰せられてから、もう一度「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。(ヨハネの福音書15章17節)」と仰せられました。ヤコブが「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。」と語っているように、みことばを行うためにイエス様が願っておられるように生きるために、神の愛は聖霊によって心に注がれていることを忘れずに(ローマ人への手紙5章5節)、与えらている自由を肉の働く機会としないために、神の愛で互いに愛し合うために、御霊によって歩むために、私たちの身代わりとなってくださったイエス様を仰ぎ見て生きようではありませんか。
