神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)
1.イザヤ書57章15節ー19節
2.イザヤ書66章1節ー2節
3.ルカの福音書18章9節ー14節
4.ヤコブの手紙4章1節ー10節
主はエリアブを見て「確かに、主の前で油を注がれる者だ。」と思ったサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰せられ、父エッサイも考えていなかったダビデにサウルの後を継ぐ王として油注ぐように仰せられたのでした(サムエル記第一16章6節ー13節)。ところで、彼の生涯を見ると、彼はさまざまな罪を犯したのですが、その度ごとにサウルと違って、「私は助言をくださった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私にお教える。私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。(詩篇16篇7節ー9節)」と語っているように、悔いた心で主に立ち返り、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と語っているように、主の赦しを、主の恵みを味わい、救いの喜びを味わって人生を生きられたのでした。キリストを信じる信仰によって与えらる神の義を知ったパウロも自分のみじめさを告白しましたが、そのことによってキリスト・イエスにある神の愛がどれほどのものであるのかを知ったのでした(ローマ人への手紙7章18節ー24節及び8章33節ー39節)。ヤコブが「私たちは多くの点で失敗をするものです。(ヤコブの手紙3章2節)」と語っているように、後悔するようなことがあり、自分の心に責められるようなことがあっても、主は信仰がなくならないようにペテロのために祈られたことを、今日の聖句を、神の子とされ、神に愛されていることを思い起こし、ヨハネが勧めているように主の御前で心安らかにし(ヨハネの手紙第一3章19節ー20節)、救われていることを喜ぼうではありませんか。
