もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(コリント人への手紙第二2章10節ー11節)

1.マタイの福音書6章7節ー15節
2.エペソ人への手紙4章26節ー12節
3.エペソ人への手紙6章10節ー20節
4.コロサイ人への手紙3章2節ー17節

パウロは「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をするようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(コリント人への手紙第二2章17節)」と、また「私たちは神に認められて福音を委ねられた者ですから、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神。を喜ばせようとして語るのです。(テサロニケへの手紙第一2章4節)」と、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と勧告してから「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい(エペソ人への手紙4章26節ー17節及び32 節)」と、また「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」と語っているように、パウロはサタンに欺かれないためにいつも主を目の前に置かれて生活しておられたのではないでしょうか。サタンの策略はエバに善悪の知識の木から取って食べても決して死なないどころか神のようになり、自分で善悪を判断することができる、と高ぶりの罪を犯させたり、神のことを考慮しないように火の矢を射っきます。サタンの策略に引っかからないように、パウロやダビデのように、主の御前で生きるようにしようではありませんか。