割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ人への手紙6章15節ー16節)

1.ヨハネの福音書3章1節ー8節
2.使徒の働き15章1節ー29節
3. エペソ人への手紙2章10節ー19節
4.テモテへの手紙第一1章1節ー11節

使徒の働き15章1節に「さて、ある人がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」とありますが、その原因は、パウロが同胞のユダヤ人たちに関して「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。(ローマ人への手紙10章2節ー3節)」と語っているように、恵みによって救われていることを、イエス様が律法を終わらせてくださったこと、神の怒りからも救われていることを忘れたキリスト者が問題を起こしたのではないでしょうか。ですから、パウロは「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ人への手紙3章2節ー3節)」と、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉は、人からではなく、神から来るものです。(ローマ人への手紙2章28節ー29節)」と語っているのではないでしょうか。今日の聖句「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」と、イエス様を信じることによって新しくされていることの大切さを語ってから「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエル」とキリスト者のことを表現しています。神の民とされてることを忘れず、パウロのようにお互いに「平安とあわれみがありますように。」と励まし合おうではありませんか。