「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人たちの見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテへの手紙第一1章15節ー16節)

1.マルコの福音書2章13節ー17節
2.ルカの福音書19勝1節ー10節
3.ローマ人への手紙5章5節ー11節
4.コリント人への手紙第二6章1節ー13節

イエス様は自分を義人と自任し、他の人々を見下している者に対して「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。わたしは他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでくダサい。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書18章9節ー14節)」と、人と神の評価の違いを話されたのでした。パウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」と、そして教会を迫害していたためにご自分のことを「私はその罪人のかしらです。」と語ってから「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人たちの見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」と、イエス様から奉仕者、証人に任命されたことを自覚して生きられたのでした(使徒の働き26章18節)。パウロが「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(コリント人への手紙第一11章1節)」と願っているように恵みをむだに受けないようにキリストのしもべとして生きるようにしようではありませんか(コリント人への手紙第二6章1節及び8節)。