私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38節ー39節)

1.サムエル記第二7章12節ー15節
2.ヨハネの福音書10章22節ー30節
3.ヨハネの手紙第一4節ー19節
4.ローマ人への手紙5章6節ー11節

パウロは「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章23節ー24節」と心の葛藤を覚えましたが、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節ー34節)」と語ってから「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とキリスト・イエスにある神の愛の力がどれほどのものなのかを語っています。主はダビデにダビデの子孫が罪を犯しても恵み(口語訳:いつくしみ、英語訳:愛)を取り去ることはないことを約束されたように(サムエル記第二7章15節)、私たちは様々なことで失敗をしますが、後悔するよりも、恵みの座に出て十字架を仰ぎ見て、その失敗を正直に主に告白するなら、主がその失敗を主の栄光に変えてくださることを、どんなことがあっても神の恵みと神の愛はなくならないことを忘れないようにしようではありませんか。